現場でバリバリ仕事をしたいと思っていた私に、意外と早くチャンスが訪れたのである。私がいまいる支店から鉄道をはさんで二十キロぐらい北へ向かった秩父山系と手前のなだらかな山々の山間部に並々と水をたたえたダムがある。もともとは田畑用の小規模の用水池だったが、これに電力会社が目をつけ恩恵を受ける二市三町が共同体で買い取り、工事が行われた。用水池を広げた上に、さらに上の山岳部を切り開いてもう一つのダムと池をつくり、上下二つのダムをつないで、夜間の余剰電力で下の水を汲み上げ、昼間はそれを落として不足分を補おうという計画だったが、当時は活発だった自然保護運動との関係で工事は予定より遅れた。
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このダム建設工事を請け負ったのが私の会社で、この現場作業所で欠員が生じたために急きょ、若かった私にお鉢が回ってきたのだった。いわゆる事務屋は私だけだったから、目の回るような忙しさが続いたが、充実した毎日だった。約二年、私はこのダム工事現場で勤めたがこの経験がなかったら、いまの私はなかったはずである。当時は現在のように三つも四つも下請けが重なるということはなく、一次下請けが直接に季節労働者を雇用するというシステムが普通だったから、私たちゼネコン側もいまよりずっと彼らと親しく接することができたと思う。多い時は六十人くらいはいた季節労働者の主力は現場近くの山間部の農家の人たちだったから、休みの日などはよく食事に誘われたものである。休みと言えば、当時は土曜も日曜もなかったと思う。雨が降れば休みというのが決まりだった。人の集め方もいまと違って土地の有力者に頼むのが普通だった。支払い条件もその日払い。現在のように、賃金のピンハネなどが起きようがなかった。段々畑でやっと飯を食うという土地の人の生活だったし、現在のように誰もが都会へ出て勤めるという状態ではなかったから、人手には困らなかった。適齢期は過ぎていたがまだ若い一人住まいの女性なども働きに来ていて、多分一番若かった私はよくそういう家に呼ばれたものであるが、不幸にして素人の女性を相手にするにはこちらが余りにも若すぎたのか、何も起こらなかった。その反動ということもないが、夜の街にはよく繰り出したものである。